誰から教わるかで印象が変わる

アシュタンガヨガのクラスを始めて先月でちょうど4年の月日が過ぎて自分のためだけに練習を積み重ねる日々から自分自身の練習のためは勿論だけど、それによって得た気づきや経験をクラスに通ってくださる生徒さん達に還元することの意味についても時々思うことがある。

 

アシュタンガヨガの練習はどんな人から伝えてもらうかによって、最初の始まりからその後の練習生活にも大きな影響が出る。太陽礼拝から始まってアシュタンガヨガのポーズの流れは全て決まっているのに教える人によっても随分と印象が変わるように思う。

だから生徒の側はアシュタンガヨガの練習によってどんな自分になりたいのか、どんな練習生活を送りたいのかによっても先生を選ぶようになるのではないかな、と思ったりする。 もちろん人間と人間の付き合いだから人としての性格の相性もあるだろうし、家から通いやすいか、職場へのアクセスが便利か、男性なのか女性なのかでも変わるだろうし、場所の雰囲気や設備なんかも決める要素になるだろう。

私自身のことを思い返せば、全く超初心者の時はマイソールクラスではなくて、ビギナークラスからアシュタンガヨガを始めた。 その当時の私はまだ朝早く起きて仕事前にマイソールクラスで練習するなんてありえない、って思っていたけれど、ビギナークラスで何度か通ううちにその当時の先生から「毎日は難しくてもまずは週1回から始めてみたらいいじゃない」と言われたことがきっかけで当時神戸にはマイソールクラスを開催している所は一か所もなかったので大阪が職場だったこともあり、大阪にあるマイソールクラスに通うようになった。

始発に乗ってシャラに行き、練習して仕事にいく、というルーティンを3年続けたけれど大きな怪我をしたことがきっかけで自宅での練習をベースとして週1回は京都での練習にシフトしたのはいつからだっただろう。。 週1回のシャラでの練習を大阪でして1年くらい経過してから練習場所を京都に変えたのだったかな。。

でも書きながら思い出したけど、大阪でマイソールクラスに通っていた時はとても強く「早く次のポーズができるようになりたい」、次のポーズに進んだらきっと私はすごく変われると思う。。と無意識に先へ先へと目の前のポーズ、課題をクリアすることに躍起になり、有名な先生のワークショップにでたら、きっと自分も上手になれるはず、なんて思いこんで色んなワークショップに行きまくり、散々ヨガにお金を散財してきた。  過ぎ去ってみれば何のことはない、結局自分自身の集中力や気づきがなければなかなか変われないことに長くの時間を費やしてから気づいた。

 

もちろん当時ワークショップに出て習ったことは役に立っているし、今も習っている先生とのご縁もワークショップに参加することから始まったし、タリック先生やマット先生、シャラート先生に習えたことも自分の大きな練習の財産として私の中に残っているけれど教えてもらったことを自分の中のに落としこんで自分自身の血として肉としていくには大阪で人の練習と比べて自分に劣等感を持ったり焦ったりしていた時には到底できていなかった。

京都のシャラで静かに黙々と練習と向き合う日々を何年も何年も費やしてやっと最近先生の言葉が心の奥までダイレクトに届くようになってから少しづつ変化してきたように思う。  何故そんな練習へのシフトができるようになったのかと思うとやはり先生の教え方がとても大きい。 静かに黙々と集中して練習することを何よりも大切にして指導されているように思う。 今はコロナで観光客の練習生とかほとんどいなくなったけど、昔はたまに外国人の観光客の人とか地方の人とかが練習に来ている時は明らかにいつもの練習生の雰囲気と異なる雰囲気を出していて、目線がきょろきょろしていたり、すごく体が動く人だと練習の仕方で見せびらかすような練習の仕方であったり、何かたいそうな感じを醸しだしているけど、 いつもの練習仲間だとそれが例えセカンドの大変なポーズでもそんなたいそうな感じに全くしない控えめな空気感というのかがあったりする。 たいそうな感じ、というのは難しそうにとか、簡単そうに、とかいう意味ではなくて、このポーズまで進んですから凄いとかどうとか、シャラに通っていると全くそんなことを思わなくさせてくれる感じ、というべきかな。。 それこそ、以前書いた、「日日是好日」のお茶の先生をヨガの先生にした感じと例えると分かりやすいだろうか。。て映画を見ていない人には分からないかもだけど。。

 

昔先生が「うちでそんな見せびらかすようなたいそうなポーズしても誰も見てないし」てな笑い話をしていたことがあったけど、確かにそうで、みんな自分の練習に集中しているから誰が入ってこようと見向きもしないから、練習時間がずれると隣で誰が練習していたのか、今日の練習で誰がいたのかとか気づかないままだったりする。 3か月前に私は10年以上していたロングヘアーからいきなりショートヘアにばっさり切ったのだけど、それも 切ってから練習に行って随分と月日が経過してからある練習仲間から「髪切ったんや」って「今さら?」てタイミングで言われて笑ってしまったこともある。 そんな感じでみんなが集中している環境で練習できると、自分の練習にも集中力が深まってとても精神的に安定した練習ができるようになってきた。

私の練習生活、きっと他人と自分を比べたり関心が外に向いたままアシュタンガヨガの練習を続けていたらきっと今でも練習を続けていたらとても苦しかっただろうし、もしかしたら練習を辞めてしまっていたかもしれない。 大阪の先生が悪いわけでもないし、素晴らしいシャラも沢山あるだろうけど、 ポーズを先に先にと進むことばかりに優先順位をつけていただろう。 もちろんポーズができるようになることは嬉しいし、日々の練習で、できるようになるために日々奮闘して、1ミリずつでも前進を感じれたら嬉しいけど、時には前進できずに後ろに下がっていたりもする。

でも、できないながらも日々の小さな変化への気づきや自分に集中することの積み重ねが何年にもなるとそれは精神的にも肉体的にも大きな変化に繋がっていたりする。

アシュタンガヨガの練習は体がすいすい動く人達だけのためのものではない。 すいすい動かなくてもたとえ、1つのポーズに3年でも4年でもかかったとしても、そんな取り組みを続けることに意味があるのだから。

そんな風に思える先生に出会えるか、ポーズ至上主義で壁にぶち当たり、苦行を続けるか戦線離脱するか、 アシュタンガヨガの練習をどういうものとしてとらえるかによって練習生活は大きく変わるだろう。

私の体はすいすいとは全く動かない。 でも そんな体でもアシュタンガヨガの練習を続けてきて良かったな、と心から思えているからクラスができている。それは私が今まで習えてきた先生達の教えが大きな影響を与えているんだよな、と最近新しい生徒さんや生徒さんとの会話からふと思ったことでした。

 

 

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