私がアシュタンガヨガの練習を始めた本当のところの理由
練習を始めて随分と年月が経過して、 ついつい毎日の練習のことやクラスのことで頭がいっぱいだけど、 ふと、 練習を始めた本当のところの理由については あんまり話をしてこなかった。
表面的な理由は2008年当時、 通っていたフィットネスクラブでパワーヨガのクラスを受けていて アシュタンガヨガ、というヨガがある、 と聞いて体験クラスに入ったことがきっかけだった。
汗をかいて体を動かす爽快感や 他のスポーツ競技はどんくさい私には絶対無理だけど ヨガなら なんとかなりそう、 と思ったからだったんだけど、 アシュタンガヨガの世界に入ってちょっと経った頃、 ヨガはヨガでもアシュタンガヨガの練習は最も難易度が高い、という話も聞いて 「あれ、世界まちがえたかな? 」と思ったけれど、 それでも他の流派のヨガをする気にはなれなかった。
私がヨガの世界に入っていったのは 本当の理由は母の死だった。 もう20年近くも昔のことなので自分の中で消化できたので書こうとしている。 母は私達子供の子育てもひと段落したころに運動を始めてフィットネスクラブに通い、 そこでダンスやエアロビクス、 スキューバダイビング、 マラソンなどの運動にどっぷりはまっていた。 まだ私は学生だったけど、 朝起きたら 母は友人とスキューバダイビングに行った後だったり、 詳しく聞かないまま、 アメリカやオーストラリアに友人と出かけていたりした。 仕事やスポーツをエンジョイしまくっていた母、 自由に楽しそうにしていたなあ、と今 ぼんやりと思い出した。
だけど、 母が50代に入ったころに更年期障害になったせいもあったのか、 心を病んでしまった。 精力的に仕事もし、友人達とダイビングやフルマラソンまで走っていたのに、 母が52歳の時に急死してしまった。
当時の私は26歳。 あっさりと急に死んでしまった母に猛烈な怒りを持っていた。 収まりきらない怒りと精神的ショックで当時の記憶があまり残っていない。 だけど、 当時 強烈に思ったのは
「いくら肉体が健康であったとしても 心が病んだら人はあかんのや。。」
と 葬儀の日、 母の骨を拾いながら まだ若くて元気そうな丈夫そうな、太くて白い骨を見ながら思ったのだ。
それから数年してから私はヨガに出会った。 ヨガは単なるスポーツではない。 人と比べるものでもない。
ヨガは心への再教育、という側面もある、 とある人から聞いたことや 実際にヨガのクラスを受けた後に感じた心や体の感覚の変化に直観が働いて 私はヨガの道を進んでいこう、 と決めたのだ。
特にアシュタンガヨガの練習は、マイソールスタイルでの練習は否が応でも 自分の心に向き合う。
私は母みたいにはなりたくない。 と思って始めたアシュタンガヨガの練習、 でもその道を進むうちに ヨガは競争ではない、というのになかなか変わらない自分の体に失望したり、 練習による怪我の痛みに苦しんだり、 ポーズを先に進めたい、という欲求がでてきたりと 一番最初に何を思って練習を始めたのかを忘れてしまったりしていた。
心を強くしたい、心を鍛えたい、と思って歩き始めたアシュタンガヨガの世界、 実際に練習経験を積んでいくとまだまだ自分の心の弱さや不安定さに直面する。
特にクラスを主宰しだしてからは 練習を自分のものだけにしている時よりも数倍 心のタフさが求められるような気がしている。
経済的な安定を求めるならマイソールクラスの主宰なんて辞めておいて、別の仕事をするほうが賢明だし まだまだ自分の練習にしっかり向き合う時間を増やしたほうがいいことも練習をすればするほど思い知らされる。
当初の目的であった心を鍛える、不安定な心を少しでも安定させる、 というのは 自分自身の練習やクラスに向き合うことで 少しでも目的の方向に努力できているような気がしている。
コロナ禍になって世界情勢が大きく変化し、過去の価値観から何か新しい流れになっていこうとする状況の中では 私に限らず、心の強さやしなやかさを養う必要が以前に比べてもっともっと出ているように思う。
単に体を自在に動かせるようになるだとか、ダイエット目的とかであれば別にヨガでなくても良いのだと思う。 でもこんな今の時代だからこそ、 どんどん変化していく世界を柔軟に生き抜いていくためのチカラを アシュタンガヨガの練習は与えてくれるように思うのだ。