私にとってのアシュタンガヨガ
定期的に文章を書かなくなると、毎回すっかりお久しぶりの投稿ばかりをしています。 父が他界してから少しの間は文章に書くことで気持ちの整理をしようとしていたけれど それも少しづつ落ち着いてくるとパソコンに向かって文章を書く、てことをなかなかしなくなってしまうな、と思います。
それでも久々に文章を書こうかな、と今 つづっています。
父が亡くなってもう早くも3か月近くが経とうとしています。 悲しみのどん底からは這い上がってきたけれど、 両親がいなくなった後の実家の片付けはなかなか大変です。
まるまる一軒家と庭の整理、ゴミ捨てになるから 業者に頼まないといけないのは分かりきっているのだけれど、 ちょっとでも片づけてから見積もりを依頼したいと、 毎週実家に帰っては少しづつ物を捨てています。
私が10歳の時から住んでいる今の実家、 私は実家を出たのも結婚した年齢も遅かったし、 実家を出てからも父とワンコとの3人ライフを毎週実家に帰ってはエンジョイしていたので 自分のものも、先代ワンコ達との思い出の物たちも無数にあって そんなものたちも捨てていく作業は本当に今までの人生の究極の断捨離だと感じています。
子供の頃の写真もそうだけど、 母の写真とかも出てきて、 母が死んでから父と母の死を乗り越えるために 20年以上、母の写真の顔を見ることがなかったのですが、 今 やっと 母の写真も見ることができるようになっていました。
母が死んで22年、 こんな年数、 かからないと私の中では母の死を消化できなかったんだなあ、と自分の心のダメージ、当時24歳で母を亡くした時の精神的ダメージの大きさに改めてびっくりしたりもします。
実家って本当に家族の歴史が詰まっていて、 母が死ぬ前の家族の在り方と母が死んでからの家族の在り方、とりわけ、私と父との関係性が大きく変わったのですが、 そんな家族の歴史も振り返る作業だったりします。
この前、父のノートパソコンを処分するのに2階の物置を整理してたら、母が使っていたノートパソコン2台も出てきて、 父が母のパソコンを20年以上経っても処分できなかったことが分かりました。 だからパソコン処分するのも父の分と母の分との4台も処分しなくしゃいけなかったり。。
そんな父の気持ちを思ったり、 我が家の歴史を思ったりして 私がアシュタンガヨガに出会い惹かれて練習を始めたのも母の死の影響が大きかったのですが、 それでもその練習の道に出会い、歩くことができるようになったのも母の死から8年後だったのです。
まだ色んなものを整理して捨てていく作業がいっぱいなのですが、 ものを捨てまくる作業で少しづつ心の整理もしているような気がしています。
母の死を経て私が出会えたのがアシュタンガヨガ。
だから 沢山のポーズをしなくても、できなくても ただ毎日の心と体の調子を見るためのツール、 静かに自分の心に向き合うためのツールとして 14年経っても未だ 飽きずに練習を続けているのだと思います。
自分の体の状態、心の状態を内観し、観察し 静かに向き合う、 それをするためのツールが私にとってのアシュタンガヨガの練習だなあ、 と思っています。
だから今、 親の死、実家の整理、 自分の人生の振り返り、 って私にとっての大きな節目を迎えて 練習はやっぱり 心を落ち着かせる大事な道具だと感じています。
正直いって 単なる運動不足解消、とか体を引き締める、 とかの目的なら他にもいっぱい色んな手段があると思うのですが 私にとっては 心を整理するための大事な手段がこのヨガの練習であり、 それが私にとってはフィットしていたのです。
沢山の情報があふれて 油断すると外の情報過多の状態に心が占領されそうになるのを 練習の時間だけは 自分の内側に向き合えるので そんな情報の海におぼれなくて済むのです。
何が正解かは人によって違うと思うけれど、 今こんな感じでアシュタンガヨガの練習を道具として使っています。
心に静かに向き合う練習になるまではある程度の頻度と期間が必要ですが、 誰でも、たとえそれが太陽礼拝だけの練習だったとしても可能です。
だから時間がない時、 練習時間を少ししか確保できない日でも 少しの練習でも向き合い方で十分 実りあるものにできるから練習って面白いのだろうな、と思います。